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1933年の教員赤化事件とは

 投稿者:宮下昌溥  投稿日:2011年 4月29日(金)18時59分13秒
  通報 編集済
  いま東京電力の福島原発再起動や、中部電力の浜岡原発3号機再起動へ向けて、国策として、菅直人内閣が原子力推進政策を押し進めている中で、呼応するが如く、御用学者による放射能無害論の大合唱が始まっている。

広島・長崎の原爆被害、ビキニ環礁における福竜丸事件、ソビエト・ロシアのチェルノブイリ原発爆発事件などを通して、理屈抜きに放射能の怖さを体で知っている日本国民に向けて、無駄な作業だと思う。

そして歴史は繰り返すと言う。

軍国日本へ向けて、やはりメディアの大合唱があったそうな。
「教員赤化事件」というネーミングで、日本の教育を軍国主義・戦争推進一色に染め上げた弾圧事件があった。
ドキュメンタリー映画「草の実」を打ち上げ、日本国民に警鐘を鳴らす監督の一文を入手した。
全文を紹介したい。
2011年4月29日    宮下 昌溥



(転載開始)
          2011年1月30日(日曜日)発行の婦民新聞第1354号より転載。

教育を戦争遂行の手段とした「2・4事件」1933年「教員赤化事件」とは

今から78年前の1933(昭和8)年のことです。日本の教育は当時国が積極的に進めていた戦争への歩みに歩調をあわせるものに変えられました。

教科書は、この年から「ススメ ススメ ヘイタイサン ススメ」といった戦争色の濃いものになっていましたが、教える先生の心までも変えることは出来ないでいました。そこで、仕立てあげられたのが「2・4事件(教員赤化事件)」だったのです。

当時の日本は、現在と同じような不況・恐慌の風が猛威をふるっていました。輸出産業だった絹糸の値段はニューヨークで大幅に暴落し、まゆ生産の比重が高かった農家をはじめ深刻な状況に追い込まれたのです。身売りや夜逃げ、一家心中が多発しました。

そこまで至らなくとも弁当を持参できない子どもは大勢いました、特に長野では、教師たちが子どもの現状に心を痛め、食べるものを工面して手渡すなど様々な形で手を差し伸べるとともに、どのような状況になっても強く生きられるように子どもを育てようと、「生活綴り方教育」や「自由画教育」に熱心に取り組んでいました。

1933年の2月4日から始まった治安維持法による弾圧は、最初から教師だけを対象にしていたわけではありません。繊維や交通の労働者の方がむしろ多かったのですが、途中から教師に対して的が絞られるようになります。

ファッショ政党の「国民同盟」に所属する国会議員が、進行中の弾圧事件を長野県内にとどめず、「全国的なものにすること」 「(国際連盟脱退などの)国難解決のための材料にせよ」といった内容の質問趣意書を国会に提出しました。当時文部大臣だった鳩山一郎氏などがこれに応え、教師をターゲットにした弾圧として拡大していきます。

自由教育に熱心に取り組んでいた長野の教師だけでなく、「全国的なものにする」ために、一都一道二府三十八県と樺太、朝鮮、中国で教壇に立っていた教師およそ七百名に弾圧の嵐が襲いかかりました。治安維持法の二つの柱である「私有財産」と「国体」つまり天皇制批判の事実がなくとも治安維持法違反として逮捕されました。長野県では若い教師二百三十名が一斉に検挙されました。当時のマスコミはこうした動きに迎合的でした。二月十九日付の「信濃毎日新聞」などは「冤罪」をも容認する社説を掲げて無差別逮捕をけしかけ、事件を「赤化事件」「偏向教育」として攻撃を加えました。裁判にかけられた教師たちは上告審で全員有罪判決を受けました。

この結果を受けて、教育界は事件を「汚名」ととらえ、教師は「汚名返上」のために「戦争協力」の行動をするよう求められました。国策である「満蒙開拓青少年義勇軍」の送り出しなどに全力をあげ、戦争遂行の役目を教師は担うことになったのです。

長野県は多くの子どもたちを「義勇軍」として送り出した結果、全国でもっとも多くの「残留孤児」を生み出しました。
(信州の教育と自治研究所 所長 野口清人 執筆)

(転載終わり)

(2・4事件を描く)
ドキュメンタリー映画「草の実」 (監督・脚本 野口清人)

(反戦精神みなぎる作曲家を示す)
音楽ドキュメント ララ、歌は流れる――中山晋平物語――(原作・脚本 和田登)
                           (監督・脚本 野口清人)


 
 
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