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夜叉姫さま

 投稿者:quwa  投稿日:2006年 3月28日(火)09時10分1秒
  はじめまして。
あるスイス人宣教師が日本の寺院の箱庭がお気に入りで、いつか寺を購入してそこを教会にしたいと言っていました。学生だった私は「ふ〜ん」と聞き流していたのですが、あれから20年近くたった今はこの有様です。

日本の教会は私的礼拝堂という雰囲気が強くて、それはそれなりに面白い伝統を有しています(異邦の地でのシナゴーグを思い浮かべます)が、やはり限界があるのも確かです。かつてのイスラエルにも世界宗教的な流れと民族主義とがぶつかりあっています。異国で生活しながらもヨナ書などの寓話で神の支配を語り継ごうとした人々もいたのです。このユーモアを交えた土壌の柔らかな状態が私は好きです。
 


神社のような教会

 投稿者:森のMadame Rose夜叉姫  投稿日:2006年 3月27日(月)18時50分56秒
  はじめまして。
カトリックに所属している、怪しげなクリスチャンです(笑。

皆様の投稿を読み、非常に心打たれました。
私の母(なくなりました)は教会を離れてしまった人です。(人間関係のもつれから)
その母がよく、神社のようにいける教会があればいいのになあ・・・といっていたのを思い出しました。
私がフィリピンに行った際、教会の前が大抵公園になっていて、教会はみんなのものという雰囲気が漂っていて「母が日本の教会にほしかったのはこれなのだな」と思ったのを思い出しました。

>生活のなかで考え礼拝する

これは本当に重要ですね。
もっと深めてまいりたいと思います。

http://plaza.rakuten.co.jp/darkwoods/

 

ヤソ村のVision

 投稿者:団栗七衛門  投稿日:2006年 2月17日(金)22時10分59秒
  quwa様、今晩は。
「耶蘇村」の幻、もっともっと自由にのびのび
膨らませていきたいなぁと思っております。

タコ太夫様、はじめまして。
密度の濃い「感想」フムフムと感心して読ませていただきました。
ヨーロッパの教会のように自由に出入りできて、
日本の神社のような空間をもつ、日本のキリスト教会があれば、
小生も行ってみたいものであります。

http://www.d2.dion.ne.jp/~donguri7/

 
お得なプロバイダーとくとくBB

RE:感想

 投稿者:quwa  投稿日:2006年 2月 7日(火)12時40分10秒
  タコ太夫さん。こちらこそはじめまして。

ひとつは、先祖崇拝については私はほとんど触れていません。単に文化的なものなのか、宗教的なものなのかという区別が明確でないからです。戦中の日本的基督教というムーブメントがありましたが、国家神道は日本の文化なので宗教とは別なものだ、偶像礼拝ではないという認識が広まりました。しかしこれはキリスト教として根底に関わる問題だったと思います。教会は被害者と考える向きもありますが、牧師が自ら説教を捨て戦地に赴いたり、青年大会は戦地での犠牲愛を美化したりと、多くの教会は礼拝のできないようになり瓦解したのです。

そうした過去と向き合って考えた結果、私のスタンスはあくまでも民俗学や文化人類学などに裏打ちされた文化的因習をターゲットにしています。私は概ね礼拝のスタイルやデザインについて提案しているとも言えます。つまり教典の摺り合わせではないのです。多くの人は教典上の理屈が成り立てば、日本の土着化に大手を振って歩めると考えがちですが、私はそうは思いません。あくまでも生活のなかで考え礼拝する姿勢こそが主の民の在り方なのです。文化的キリスト教の歴史を逆行してトレースしている感もあります。

そういう意味では、私の教会観は「耶蘇村」というヴィジョンのなかで開放されています。礼拝の次にまず考えたのは、祭儀的生活という贖いと感謝の応答です。もちろんアイテムはまだまだ不足しており、実際の生活に耐えられるものではありません。タコ太夫さんの様々なアイディアはそのまま保持してスケッチしてみると良いかもしれません。行為は同じでもキリストを敬う人々。そういう幻を見つつ歩んでいきたいものです。
 

感想

 投稿者:タコ太夫  投稿日:2006年 2月 6日(月)19時41分44秒
  はじめまして.以前から興味をもって拝見させていただいております.何点か感想と気になったことをごく簡単に.

1.和風???
   まずはじめに,「和風」というコトバのとらえ方に若干の疑問を感じます.日本の伝統に固執するあまり,現代日本人の生活感覚からはかえって浮いてしまい,何やらマニアックな印象を抱いてしまうのですが... 音楽にしても,あまりにも純邦楽すぎるように感じます.純邦楽を用いることには問題はないように思いますが,ただもう少し,現代風の,多少なりともポップなアレンジもほどこした方が,むしろ現代日本人には親しみ易いように感じました.

2.祖先崇敬・崇拝
   日本宗教史上の「祖先崇拝」に関しては,様々な説があり,複雑な議論のなされているやっかいな問題のようです.いつ頃からそうしたものがあったのか,ということになると,おそらく...ですが,古代からあったということになっているようで,中世には仏壇に位牌を置いたり,寺で葬式を行ったりしていたようです.また,一口に祖先といっても,その具体的な意味内容は,必ずしも一枚岩ではないようです.ごく簡単な例をあげると,神話上の遠い祖先と,比較的最近に亡くなり,顔も名前も記憶されている故人とでは,だいぶん様相が異なります.前者はあるいは一部の限られた家柄に限定されるように思われる方もいるかもしれませんが,実はそうではありません.今日でも多くの家に系図が伝えられ,神話的祖先祭祀は保存されています.
   しかしながら,そうしたことは問題の本質ではないように思います.むしろ,現代日本人の祖先観と,キリスト教の祖先観との間にどの程度まで公約数があり,教会が具体的にどのようなサービスを提供しうるのかが問題ではないか,と思います.現代日本において祖先崇拝がどの程度生きているか,については厄介なことに,家々ごとに,また個人ごとに異なります.しかしながら,たとえ半ば形骸化しても,祖先崇拝は盛んに行われています.祖先崇拝を全面的に廃止することに関しては,未だに多くの日本人が躊躇しているようで,むしろそのために,仏教や神道の形式が利用されているかのごとき印象も受けます.現代日本の祖先観を理解するためには,宗教の枠をいったん離れなければならないように思います.例えば,比較的最近にできた新興宗教や,あるいは,精神世界や,はたまた通俗オカルト云々までが,お約束のようにご先祖様を持ち出します.こうした現象の背景には,意識の表面的な部分での宗教観の相違を超えた,ある程度共通した祖先崇拝への内面的需要が根づよく残っているように感じられます.
   こうした現象に対してキリスト教会の側からどういったアプローチが可能でしょうか? 最近のキリスト教会では,カトリック・プロテスタントを問わず,祖先崇敬をもっと尊重しようという動きが見られます.カトリックの家庭祭壇には,ずいぶん昔から「位牌」が置かれています.あるいは,キリスト教の葬儀に「焼香」を導入することは,カトリック・プロテスタントを問わず,しばしば見られます.そうした例はともあれ,少なくとも,「祖先を敬うこと自体は,何らキリスト教と矛盾しないばかりか,むしろ,キリスト教でも必要なことだ」と考えるのが最近の動向なのではないでしょうか? よくひきあいにだされる「汝の父母を敬え」ですが,この場合の「父母」とは,生前の父母に限定されないのみならず,「生命の継承という重要な問題を考えれば,祖先にまで拡大解釈されるべきだ・・・云々」といった意見もよく耳にします.もしそうであれば,そのような祖先崇敬は,具体的にいかなる形式で表現されるべきか? この場合,日本の伝統的なスタイルをどの程度まで取り入れることが可能か? 等々といった問題がでてきます.
   ...ともあれ,祖先崇敬の問題は,今日キリスト教でも盛んに論じられているホットな問題なので,今ここであれこれ論じることには限界がありますし,僕にもそうした能力はありません.あくまで個人的感想を思いつくまま書き連ねるにとどめておきます.

3.解放空間VS敷居の高さ
   和風のキリスト教を考えるとき最も重要な問題ではないか,と僕が思ってるのがこのことです.どういうことか,といえば,神社・仏閣であれば,ほとんどの日本人が,信仰の有無を問わず,ごく気軽に立ち寄れます.なぜかといえば,空間が文字通り開放されているからです.無論,全ての設備が解放されているわけではありません.しかしながら,キリスト教の教会のほとんどが,普段は扉を閉めていて,しかも扉の外にはこれといった施設のないことを考えれば,大違いだと思います.教会の扉の外には何があるでしょうか? せいぜい,案内板・駐車場・花壇・付属幼稚園の遊技場・・・といった程度ではないでしょうか? 僕は教会の前を通るたびに,閉めきった扉を見るたびに,「入りづらいな〜〜〜」って感じます.ほとんどの教会がまず,そうです.多くの日本人にとって,教会の敷居は非常に高く感じられています.
   他方で僕は,山歩きとか旅行などの際には,気軽に神社・仏閣のお世話になります.別に,お参りをするわけではありません.飲み水の補充・トイレ・休憩です.無論,文句を言われたことなんて,ただの一度もありません.休憩がてら,神社のいわれなんかを読んで回ったりもします.よくパンフレットなんかもおいてありますが,歴史好きの人間には面白そうなことを書いてあったりします.そういうのは,頂いていきます.パンフレットだけではなく,社務所で売ってる「商品」にも若干,興味があります.売れ筋商品は,お守りでしょうか? よく,お守りを買うためだけに気軽にちょっと神社に行く人もいますね.
   無論まさか,教会でお守りを売るわけにはいきません.ですが,「ちょいとおしゃれな」十字架のアクセサリー,ネックレスとかキーホルダーくらいなら,別にいいんじゃないか,って気もします.あるいは,聖句を印刷した,「ちょいとおしゃれな」グリーティング・カードとか.それから,冠婚葬祭に教会を利用したい人のための,利用案内のパンフレット.無論,もっとマジメな,キリスト教案内のパンフレットも置いておくべきでしょう.
   無論,教会の敷地内でこうした「商売」をすることに抵抗を感じる方は少なくないでしょう.それに,もし仮に実行したところで,設備投資の割には,利益はほとんど出ないでしょう.ですが,もちろん商売自体が目的ではありません.こうしたことも,少しでも多くの人に・より気軽に教会に足を運んでいただくための方策としては,別にかまわないのではないか? って思います.もし万が一,利益が出るようなことがあれば,そのときは,その有効な利用法を考えればよいだけのことです.
   さらには屋外に,神社の拝殿を真似て,教会の信者意外の方でも誰でも気軽に礼拝のできる,屋外礼拝施設のようなものを設けることは,はたしていけないことでしょうか? そこにお賽銭箱(献金箱)を置くことは,それほどいけないことなのでしょうか? さらにこうした屋外の礼拝施設に,いわば「初詣気分」で,クリスマスなり,お正月なりに,気軽に足を運んでもらうことは,はたしてそれほど忌避されるべきことなのでしょうか?
   無論,このようなことは,スペースや予算の関係からきわめて困難な夢物語に思われるかもしれません.また,もし仮に実現できたところで,本当の意味での信者が増えるとは,なかなか考えがたいように思われるのではないかとも思います.しかしながら,充分条件と必要条件とは異なります.このような試みは,日本社会にキリスト教が根付くためには決して充分とはいえないでしょう.しかしそれでも,必要な試みではないか,と思います.まずは,教会の敷居を低くして,誰でも・いつでも気軽に遊びに来られるような環境を整えることが,何よりも第一に必要なように思います.
 

おめでとうございます

 投稿者:団栗七衛門  投稿日:2006年 1月19日(木)21時19分14秒
  30,000アクセス おめでとうございます。
それから新年のご挨拶もまだでした、
遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
小生のほうも、これからも細々と続けてまいります。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

http://www.d2.dion.ne.jp/~donguri7/

 

祝30,000アクセス

 投稿者:quwa  投稿日:2006年 1月14日(土)21時10分27秒
  おかげさまで先日に累計30,000のアクセスを頂戴いたしました。更新もほとんどないままで相済まないのですが、時折訪れて頂いた方に感謝いたします。

日本民謡による詩篇の訳詩と節付けを行なって始まったこのサイトでしたが、それを歌う場のコンセプトを説明するのに、随分と冗舌なものになったものだと思います。未だに日本の文化的な言語で宣教を行なうというコンセプトについて、まとまった内容を持つサイトや交流の場の少ないのが実状ではないかと思います。これからも細々と続けてまいりますので、よろしくご贔屓のほどお願い致します。
 

先祖崇拝について

 投稿者:quwa  投稿日:2005年12月 7日(水)07時34分12秒
  SMさんの質問にいくつか可笑しな点があります。まず宗教観についてですが、日本人ならば必ず先祖崇拝と関わるという前提に立っていることです。檀家制度は江戸時代に檀家制度が敷かれた以降の風習であって、かつては武家や公家が自らのために建立した菩提寺の世俗的な展開です。そして先祖崇拝は檀家制度が崩れた都市部では得てして変容しているか、ほとんど問題にされていないという現状があります。

檀家制度は一方で個人の生死という近代的な概念を生み出したとも思われ、歌舞伎の成立史をみていると、その前提に死者の怨念を晴らすという概念が浮き上がります。登場人物には功名のない一個人もクローズアップされ、そこに深い情念を浮き立たせます。こういう人の間で語られる説話的なものに含まれる生死の世界観は、江戸時代以降に急激にパーソナルに変容したと思われます。古代における墓の概念は功名を成し遂げた権力者の記念碑であり、必ずしも現在の先祖崇拝というものには結び付かないでしょう。そうした供養の特権を得られたのも権力者ならではのことだったと思います。
 
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(無題)

 投稿者:SM  投稿日:2005年11月14日(月)15時41分12秒
  万聖節の件、お答えありがとうございました。早速調べてみます。

quwaさまの教会では、死後一年目に記念会を開いたりペンテコステの日に墓前礼拝を行っていらっしゃるそうですが、これらもこの世を去ったすべての信徒の方を憶ってされているものなのでしょうか。

お盆や彼岸等の供養では、自身の「先祖」に対して行っている傾向が強いかと思います。quwaさまご自身が、亡くなったすべての信徒の方々に対して先のような行事をされていらっしゃいましたらお聞きしたいのですが…亡くなられたお父様と亡くなられた他の信徒の方々に対する憶う気持や、気持からくる行動に違いはないのでしょうか。お答えにくい質問かと思います。ご無理なさらない程度にお答えいただけたらと思います。
 
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万聖節(2)

 投稿者:quwa  投稿日:2005年11月14日(月)11時59分9秒
  私もプロテスタント教会に所属している者なので、万聖節の行事に参加したことはありません。引用したのも広辞苑での記述です。万聖節について詳しいことは、どなたかカトリックの信者さんに聴かれるのが妥当かと思います。

ネット上で公開されていて、プロテスタント系(比較的ファンダメンタルなバプテスト系)でキリスト教の死者儀礼についてフィールドワークを行っている数少ない研究者は以下の人がいますので参考までに。
http://toshi-k.net/list/list1.htm
 
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