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義経記 如意の渡し

 投稿者:magohati  投稿日:2016年 7月11日(月)10時07分42秒
  義経記を正確に読んで頂くと、版によっては「二位の渡しより船にのらんと」とか「如意の渡し」とかの記述がありますが、現在、高岡市が銅像を設けている小矢部川河口の場所は、近年、ここで営業していた渡し船の会社が宣伝用にデッチ上げたもので、実際はもっと上流の「五位庄赤丸村の延喜式内社赤丸浅井神社の前にあった船乗り場の事を二位の渡しと呼び、そこから小矢部川河口の六渡寺村までの船下りルートを(如意の渡し-六渡寺川下り)と呼びました。赤丸浅井神社は元正天皇二宮の創建とされる事からこの神社の前の船乗り場を(二位の渡し)と呼んでいました。」正確に読んで頂くとこの前段に「五位庄に至りて」と記載されており、この赤丸浅井神社は「五位庄総社」となっています。ここで弁慶が義経を打擲したあの「勧進帳」の原型場面が在った訳です。この神社は700年頃に建てられたという古い神社で、神社には天然記念物の古い杉並木があり、高岡市の観光ポイントです。(石堤浅井神社は赤丸浅井神社の末社ですからお間違いの無い様に!)
 
 

謹賀新年

 投稿者:笠松憲一  投稿日:2014年 1月 3日(金)21時13分24秒
  新年明けましておめでとうございます。
今年は元旦から少し朝寝坊をして初日の出を完全に上がりきってしまって(日の出から時間にして5分ぐらい)から拝みました。初詣は例年通り、銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社とお参りをしてきました。銭洗弁財天で引いたとんぼおみくじは「四十六番大吉」でした。今年は昨年にも増して晴天で天気がよく寒くなかったせいか人出が多く、鶴岡八幡宮ではお参りするまで70分かかりました。荏柄天神社も同様に昨年以上の長蛇の列で、参拝はあきらめ午の土鈴だけを買い求めてきました。
ボウリングの成績の方は5月4日に品川プリンスホテルBCで3回目のパーフェクトゲームを達成しました。オイルパターンは姫路麗プロが2012年のJPBA女子全日本選手権決勝(TV生中継)でパーフェクトゲームを出したときを再現したオイルパターンでした。今年はアベレージ210~220を目標にして練習をしようと思っています。
市杵島姫様が、私の投稿をまとめてコンテンツにしてくれたら大変うれしいですね。
本年も幸多き年となるよう心よりお祈り申し上げます。
 

訪問有難う

 投稿者:@塾長  投稿日:2013年10月14日(月)09時25分16秒
  久しぶりのお言葉に、感激です。
お元気なのが何よりです。
お勉強、頑張ってください。
 

お久しぶりです

 投稿者:いちきしま  投稿日:2013年10月14日(月)01時25分1秒
  笠松さん今年も来てくれてありがとうございます。
笠松さんの書き込んでくれた事をまとめてコンテンツにしなけりゃなぁ・・・
って前から考えていましたけれど・・・
中居屋さん、すっごいお久しぶりです。来てくれてありがとう。
よりちゃん。
よりちゃんの4回生の頃・・・知ってるよ。「まぁあたりまえか・・・」
それが今は私が・・・ってもう卒業して今は院生だけどね。
一応色々取りたいものがあるんでまだ学生を続けるよ。
セブンも久しぶりだね。
来てくれてほんとにありがとうね。
そうかぁ・・・よりちゃんが4人でセブンが3人かぁ・・・
あっ・・・おめでとうございますとか・・・言えてなかったなぁ。
ぺこぽん⇔さくまっち さんお久しぶりです。コミュ入りましたよ。
でも2年も報告してなかったなぁ・・・
塾長さん。
お久しぶりですぅー。
わぁ・・・なつかしいなぁ。
でもみんなが書き込んでくれてから2年以上経ってるから・・・
この返事もみんなには届かないのかなぁ・・・
みんなに連絡取れればいいなぁ・・・

 

謹賀新年

 投稿者:笠松憲一  投稿日:2013年 1月 3日(木)11時42分20秒
  新年明けましておめでとうございます。
今年も元旦に銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社と初詣をしてきました。銭洗弁財天で引いたとんぼおみくじは「十八番大吉」でした。鶴岡八幡宮では晴天で天気がよかったせいか、人出が多く、お参りするまで40分かかりました。今年も荏柄天神社は長蛇の列で、参拝はあきらめ蛇の土鈴だけを買い求めてきました。
昨年の暮れにパソコンが不調になり、CPUにcore i5-3570Kを使ってパソコンを自作(流用したパーツがあったので製作費は約5万円)しました。
ボウリングの成績の方はいまひとつでハイゲームは280でした。今年の課題はスピードを落とさずに回転数を上げることです。
本年も幸多き年となるよう心よりお祈り申し上げます。
 

(無題)

 投稿者:牛若  投稿日:2012年11月 2日(金)15時54分37秒
  こんにちは
静たん、元気?

また、来ます
 

お久しぶりです

 投稿者:中居屋  投稿日:2012年 9月 9日(日)10時51分23秒
  お久しぶりです。マヤ神話について以前書き込みをしていた中居屋です。
もうすっかりお互い大人になってしまいましたね。
あの頃が懐かしい。

大学でマヤ文明の事を学んだあとメキシコへ行ったりもしましたが、
今はしがないサラリーマンへと無事(?)転身を果たしました。

市杵島姫さんのご活躍を陰ながら応援しております。
それでは。
 

謹賀新年

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2012年 1月 3日(火)21時44分27秒
  今年も元旦に銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社と初詣をしてきました。
鶴岡八幡宮では昨年より少し早く午前中に行ったせいか昨年よりは混雑していませんでした。倒伏した大銀杏も見てきましたが新芽がさらに成長していました。
荏柄天神社では今まで最高の長蛇の列で、鶴岡八幡宮近くで買った干物の福袋を持っていたこともあり、お参りはあきらめて竜の土鈴だけを買い求めてきました。
昨年のボウリングの成績の方は、第34回SBCチャンピオンカップでトリオ戦で2,781(チームHC=80込)のスコアで優勝と1,028(248・266・278・236/HC=0:自己最高記録)のスコアで個人ハイシリーズ賞をとったのが一番でした。
YouTubeで女性の方だけですが。第34回SBCチャンピオンカップの模様を見ることができます。女子ダブルスの方で私のチームメイトとトリオ戦の成績を見ることができます。
本年も幸大き年となるよう心よりお祈り申し上げます。
 

紀州笠松氏と佐久間氏の関係

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2011年 6月29日(水)01時22分16秒
  紀州笠松氏と佐久間氏の関係に関する記述が「津々堂のたわごと日録」というブログ中にあったので一部を抜粋して記述します。

佐久間氏関係論考-3
「金沢城主・佐久間盛政その名跡に関する一考察」 吉原 実 著
より一部抜粋

実はもう一家、盛政の名跡を継いだと伝わる家がある。紀州・有田の豪族、保田氏の系統である。盛政の弟安政が紀州と河内の守護、畠山昭高の家臣であった保田佐助知宗の婿養子となり、保田安政と名乗っていたのは『信長公記』や『佐久間軍記』などにも書かれており真実と思われる。安政の義父・知宗は、天正四年五月の石山合戦・三津寺城攻めの折に討ち死にしてしまうが、その知宗が盛政の養子になったと書かれている系図がある(笠松系図)。安政が知宗の養子となった事と混同されていると思われるが、知宗には弟重宗がおり、この人も賤ヶ岳で討ち死にしたとなっている。しかし、その後、重郷、重之、重吉と続き大庄屋として明治維新まで来ている。保田氏より分かれ、笠松氏を名乗っている。

佐久間氏に関して体系的に書かれているので佐久間氏関係論考-1,2と併せて読まれると良いと思います。その他にも佐久間氏に関する記述が多数あります。紀州の笠松氏は佐久間氏と縁があったんですね。

江戸時代伊達藩の笠松氏についてですがインターネット上の「埼玉苗字辞典」というサイトで笠松氏に関する以下の記述がありました。
笠松 カサマツ 高麗郡青木村字カサ松、比企郡大谷村字笠松あり。各市町村に存す。新潟県上越市三十四戸、見附市十五戸、宮城県柴田郡柴田町四十八戸、遠田郡涌谷町八戸、角田市四十戸あり。
上記の記述と涌谷伊達家と縁がある「笠松正左衛門」という人物が江戸時代初期にいたので宮城県柴田郡柴田町(下名生:しものみょう)(わかりやすく書くと仙台空港の近く)、遠田郡涌谷町に江戸時代初期には居住していたのではないかと考えています。
 

おひさしぶり!

 投稿者:より  投稿日:2011年 3月21日(月)16時12分23秒
  ふっと思い出して、来ました!
もう4回生ですか!?ついこの間、私が4回生だった気がするんですが(汗)
今じゃ4人の子どもの世話ばっかで、もう泣きそうですよ。
仕事は、高校生の古文漢文の添削してます。
最近じゃ鎌倉時代はあまり勉強してなくて、平安時代に行っちゃってます。

大学院かー、うらやましいです!
昨日「生まれ変わったら京大行きたいなー。次は頭良い人のとこに産まれて来よう。」とかつぶやいてましたよ(笑)
おひさしぶり!お絵かき109083
 

お久しぶりですの

 投稿者:セブンメール  投稿日:2011年 3月 3日(木)11時47分39秒
  元気ですか?
今は3人の子供たちに追われて
な~んにもできないけどね(^^;

いっちゃんもがんばってちょうだい♪
 

謹賀新年

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2011年 1月 3日(月)18時52分33秒
  今年も元旦に銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社と初詣をしてきました。
鶴岡八幡宮では天候が良かった(快晴)せいか昨年にも増して混雑していました。昨年3月に倒伏した大銀杏を見てきましたが新芽がかなり成長していました。
昨年のボウリングの成績の方は予選会ではトップ通過(本大会では地区代表で旗手を務めました。)したのに本大会では全くだめだったりと波が激しい1年でした。その分球の破壊力だけは上がったような気がしています。
今年は安定して良いスコアが出せる1年にしたいと思っています。
幸多き1年となりますよう心よりお祈り申し上げます。
 

久しぶりに投稿します。

 投稿者:ぺこぽん⇔さくまっち  投稿日:2010年10月23日(土)13時25分30秒
  私も三浦介星友さんと同じでmixi厨です。

mixiやってる人で「佐久間氏」のコミュ立てました。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=5206069

興味ある方入ってくださいm(_ _)m

また遊びに来ました!

来月鎌倉に行くかもです。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=5206069

 

ほっとした

 投稿者:@塾長  投稿日:2010年 9月10日(金)08時14分30秒
  元気でいることが、わかってほっとしたよ。
あれから、どうしたかと気にしていたけど、近日の書き込みを見て安心。
大学生をしているそうで、次ぎは大学院ですか。
忙しそうですね。
 

うっ・・・

 投稿者:市杵島姫  投稿日:2010年 9月 8日(水)16時26分20秒
  ありゃ・・・
来てくれる事に感謝だな。
 

めっちゃひさしぶりやぁ~

 投稿者:市杵島姫  投稿日:2010年 9月 8日(水)16時23分18秒
  ご無沙汰です。
私も今は大学生でして・・・もうすぐ卒業ですがまだ大学院も行くつもりなんで・・・
まだまだ学生です。専攻は史学じゃなくて法学なんですけどね。
せっかく来ていただいたのにこのサイトも放置状態です。
小学生のときに立ち上げたサイトに今も着てくれる事に大感謝です。
笠松さん 星友さんありがとう。
なかなか来れないけれどこれからもどうぞよろしくね。

ぺこぽんさん同じ一族の末裔・・・来ていただいてほんとに嬉しいです。
でもご返事に1年かかっちゃいました。ごめんなさい。
もしまた遊びに来てくれていたらうれしいな。
 

お久しぶり~

 投稿者:三浦介星友  投稿日:2010年 1月24日(日)22時44分6秒
  御無沙汰してます(笑)
最近、自分もすっかりHPは放置状態でして、もっぱら気軽に出来るMIXIオンリーになってます(汗)

で……この前、関東三十六不動尊札所のひとつである真福寺・和田不動に行って来ました。
昨年は上洛し、青蓮院の青不動へも参拝して来ましたよ(笑)

また時々ですが、お邪魔させていただきますね~

市杵島姫さんも、大きくなったんだろなぁ~(笑)
 

謹賀新年

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2010年 1月 2日(土)20時21分53秒
  元旦に銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社と初詣をしてきました。銭洗弁財天でひいたおみくじ(扇子形の持帰り用)は一昨年と同じ第4番大吉でした。ちなみに昨年は第15番小吉でした。今年の元旦は天気がよかったせいか例年になく人出が多く各神社ともお参りするのに時間がかかりました。鶴岡八幡宮では宝物殿で源頼朝の特別展があったので見学(\200)し、見学記念に流鏑馬がデザインされた竹製のしおり(\300)を買ってきました。
昨年10月24日(土)~25日(日)にかけて軽井沢プリンスホテルボウリングセンターで開催された第32回SBCチャンピオンカップに参加してきました。結果はわずか5点差で個人戦第10位入賞に届きませんでした。時間に余裕があったら軽井沢からほど近いところにあるので朝比奈三郎義秀のお墓参りをしようと思ったのですがETC土日特別割引の影響で5時間もかかってしまいお墓参りの方はあきらめました。
11月28日(土)~29日(日)に品川プリンスホテルボウリングセンターで開催された第43回宮様チャリティーボウリング大会に城南地区予選を8位で通過できたので投げたのですが本大会の予選通過(一般男子は上位32名)はなりませんでした。
年々アベレージは上がってきているので今年はもっといい成績が残せればと思っています。
 

初めまして

 投稿者:ぺこぽん  投稿日:2009年 6月18日(木)22時27分21秒
  初めまして。私は和田義盛の孫佐久間(旧姓和田)朝盛の30代目の子孫にあたります。※尾張佐久間家ではなく上総佐久間家です。
私の家系は佐久間家盛(佐久間朝盛の嫡男)の嫡男佐久間重吉という人物が上総国夷隅郡奥津を本拠として現千葉県勝浦市・御宿町を領地としておりました。

やはり尾張佐久間家は有名だと思いますが上総佐久間家はあまり有名ではないです。
まぁ上総佐久間家はこっちなりに頑張っていたと思いますが。

よろしくお願いします。
 

前回メールの修正

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2009年 4月21日(火)14時10分53秒
  誤→1ゲーム目に土屋佑香プロと一緒に投げた
正→1ゲーム目に土屋佑佳プロと一緒に投げた
上記間違えていました。
なお、土屋佑佳プロは4月19日(日)に決勝戦が行われた「2009宮崎プロアマオープン」で準優勝しました。
私は同日行われたROUND1 CUP200地区予選会(関東Bグループ 於:ROUND1川崎大師店)で40位(148・216・216・247・190・161 1178 H/D=18 合計1196)という成績でした。
 

笠原さんって?

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2009年 4月 9日(木)10時03分33秒
  私の姓は「笠松」なんですけど……。
「笠原」っていうのは私が「笠松」と「中原」のかけあわせになっているという意味ですね。
最近のボウリングの成績はいいのやら悪いのやらというところです。
悪い方は、4月4日(土)ジャパンカップ予選会では160台(品川プリンスホテルボウリングセンターのHPに掲載 ロースコアの原因はスプリットの大量生産)という成績でした。
まあまあだったのは、4月6日(月)ラウンドワン川崎大師店で行われた川崎フェスティバルの840(184・235・186・235:スクラッチ)という成績でした。1ゲーム目に土屋佑香プロと一緒に投げたのですがいい勉強になりました。
 

いつもありがとう。

 投稿者:いちきしま  投稿日:2009年 4月 8日(水)00時31分42秒
  私がこのホームページを始めて8年ぐらいかな・・・
今は大学に通ってて忙しく・・・
更新もぜんぜんできないけど、こうやってずっと来てくれる
笠原さんには本当に感謝です。

笠原さんとも長いお付き合いになりましたね。
これからもボウリングがんばってください。
そしてよろしくお願いします。
 

最近のボウリングの成績

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2009年 2月12日(木)15時04分54秒
  2月4日にインターネットが再開通しました。
ボウリングの方は最近好調で今年1月25日(日)に行われたハナハト会月例会では944(H/D=52込み)で優勝、2月1日(日)に行われたマンスリートーナメントチャンピオン大会では1409(188・224・233・196・225・211 H/D=132)のスコアで優勝、昨日行われたなかや杯第92戦では977(257・190・300・194 H/D=36 先ほど「プロショップなかや」のHPを見たら第92戦の成績が公開されていました)で優勝しました。3G目のパーフェクト
の最終投球は前回とは違い9回連続ストライクの後場内アナウンスがありギャラリーが集まった状態での投球でしたが、思い切って狙ったとおりのラインに投げることができポケットヒットしたストライクでした。
 

朝比奈三郎義秀の墓

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年12月17日(水)12時03分2秒
  長野原町のHPで文化財の項目に朝比奈三郎義秀に関わる以下の記述がありました。
ここでは北条九代記の記述から朝比奈三郎義秀の母を巴御前としてあります。
以下文を長野原町のHPより引用しました。
朝比奈三郎義秀の墓
所在地:応桑
種類:町指定史跡
指定年月日:昭和49年9月21日
応桑の狩宿に朝比奈三郎義秀の墓といわれる場所があります。面積約9.9㎡ほどの墓地内にすでに風化して破損している高さ1mほどの三重の塔がそれ。
北条九代記によれば、朝比奈三郎義秀は、鎌倉の元老和田義盛の第三子で、生母は木曾義仲の側室巴御前である。木曾義仲が戦死後和田義盛の側室となって後に生まれてきたと言い伝えられている。義秀は大力武勇の猛者で、健保二年和田合戦に勇名を轟かせ幾人かの敵をたおしたが微傷すら負わなかったという。しかし、父和田義盛其の外兄弟郎従等悉(ことごと)く討たれたので、巳むなく安房国へ遁(のが)れて、行方を隠したことは明かであるが、或いはそれから更に遁れて、当時木曾の残党の潜入したという西吾妻へ移ってきてこの地で終わったものではあるまいか(吾妻郡誌)(義秀の出生等については長野原町誌をそのまま書かせていただいております。)
 

中原兼遠の父

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年12月 8日(月)11時16分10秒
  Wikipediaの記述では中原兼遠の父を中原広季としていましたが、日本の苗字七千傑というサイトで系譜を調べたら父は以忠流中原氏で兼経となっていました。
私見では日本の苗字七千傑の表記の方が正しいと思っているのですが……。
鎌倉幕府で重きをなしていた大江広元も中原兼遠の親戚にあたります。大江広元が和田小太郎義盛と巴御前の仲をとりもったとも考えられますね。
以下日本の苗字七千傑というサイトから引用
【中原氏】
 安寧天皇の第3皇子、磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まると伝える。
 子孫は大外記、少外記を世襲職とする。 また明法道、明経道の家としても著名である。
 堂上家には列していないが、地下家としては、押小路、平田、山口、志水などの家がある。
 平安時代末に中原広季の養子となった親能は、異母兄弟の広元と共に鎌倉幕府に参画し、親能の養子能直は豊後守護として下向して大友氏の祖となる。
 異流中原氏として崇峻天皇裔の江州中原氏があるが、仮冒は明らかで舎人親王裔中原真人長谷に始まる。
●以忠流中原氏
以忠─ ◇ ──◇ ─頼兼─兼経─兼遠
●有象流中原氏
有象─致時─師任─貞親─広宗─広忠─広季─広元(大江)

追伸
都合により今年一杯で今のプロバイダとの契約が切れます。来年どこのプロバイダと契約するかは現在のところ未定です。
 

私の母方(遠州内山氏)の出自

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年12月 1日(月)11時44分23秒
  私の母方(旧姓:内山 家紋:丸に剣片喰)の出自が以下のHPにあったので引用記述します。私の母は結婚前静岡県浜松市にある浜名湖岸の気賀近くに居住していました。
遠州内山氏の出自
(浜名湖舘山寺美術博物館blog、堀江城木寺宮定姫物語より引用)
内山氏は大和国磯城彦族十市首の末裔で中原兼遠の子、兼平(木曽義仲の重臣)が今井四郎を称し、その次男、久清右衛門兼益が信濃より遠州内山村(浜名郡新居町)に移る。その子が内山三郎を称し、その子孫内山治左衛門兼重が正統。明応八年(1499)の今切れ大災の大津波以来、今川良俊より特別な扱いを受けて内山より刑部に定住しました。その後今川にくみしました。明治維新となり、大政奉還と聞くや刑部・五日市の内山氏の末裔は双手を挙げて喜び、それまで節句祝いを止めてまでして耐え忍んできた鬱憤を晴らしたと伝えられています。

中原兼遠(Wikipediaより引用)
中原 兼遠(なかはら の かねとお)は平安時代末期の武将。信濃国木曾地方に本拠を置く豪族で、「木曾中三」を名乗りとする。
右少史、大隅国司。康治2年(1143年)に従五位下大隅守に任官。 久寿2年(1155年)、源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育する。駒王丸は兼遠一族の庇護のもと逞しく成長し、後に木曾義仲と名乗って平家打倒に目覚しい活躍を見せる。
兼遠の子である兼光と兼平はともに義仲第一の重臣、娘の巴は義仲の妻となっている。またもう一人の娘(山吹御前、もしくは葵御前)は義仲の嫡子義高を生んでいる。

私と市杵島姫は意外と近い親戚ということになりますね。
 

朝倉家臣団の和田氏

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年11月25日(火)10時26分17秒
  福井市和田公民館
〒918-8237
福井市和田東1-1504
TEL/FAX 0776-22-0038
上記施設が公開している
わだ公民館
というHPで以下の文書を見つけました。

和田小太郎義盛の子孫が越前朝倉氏の家臣団にいた証と考えているのですが……。
一部抜粋を以下に記します。

<和田区名の縁起>
 郷社和田八幡神社の縁起によれば、人皇第62代村上天皇の天徳3年(今より993年前)当国の守護多田満仲偶々霊夢に感じ、山城国石清水八幡宮に模して和田ノ荘の地をトして八幡の神を勧請すとあるに依って、この時代に既に和田ノ荘の名称あるは明かなれども其の起源を知るに由がない。 附 和田中村神明垣内の南方神明神社の正面に巾5間、長さ10数間、舟形をなせる芝生ありて、義盛屋館跡と称して豪族和田九郎右衛門教敏の居と称せられ、和田氏の居に依って和田ノ荘と称するとも伝えられているが信じがたい。

<義盛屋敷>
 この和田氏の屋敷跡であるが、江戸時代から「義盛屋敷」といわれて伝承された(『越前国古城跡并館屋敷蹟』、略して「城跡考」ともいう)。これは鎌倉初期の武士和田義盛の名に仮託した命名であろうが、「城跡考」によれば朝倉氏の家臣和田九郎右衛門教敏が居たところと考証されている。この和田教敏はその通称からみて『朝倉始末記』にみえる和田孝敏と同じ人物かと思われる。この義盛屋敷の伝承地は神明神社東方にあったが最近整理されて消滅した。ただし「城跡考」に縦五間横十間の芝原(芝のはえた野原)であるとされており、朝倉氏の重臣和田氏の屋敷としてはあまりに狭いようである。
 いまこの伝承は別としても和田氏の屋敷跡の有力候補地の第一にあげられるのは現在の神明の集落そのものである。その景観は現在でもよくうかがうことが出来るが、用水と堀に取り込んだ本格的な城館址とみなすことも出来よう。この神明の地は和田地区の全体のなかで酒生用水系の比較的上流にあたる。したがって和田庄全体の用水を制するような在地有力者の居館群と仮定することも可能かと思われる。
 次に旧『和田区史』には「和田城は和田中にあったらしい」と記述されているが、その根拠を明らかにしない。ただ広い和田庄のことでもあり、和田氏も戦国期には最低三軒はあったことがわかるので神明以外の古くからの集落に居館があったとしても不自然ではないだろう。但しその名称および位置は詳らかでない。
 

新説!? 日本ミステリーその3

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年11月11日(火)10時18分11秒
  11月4日に放送された「新説!? 日本ミステリー」で「平清盛は平家ではなかった!?」をテーマにしていました。
Wikipediaでは平清盛について以下のように記述(一部を抜粋)されていました。

元永元年(1118年)、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれる。生母は不明だが祇園女御の妹という説が有力である。母の死後、祇園女御の猶子になったという。大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。清盛は3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。

祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河天皇であるとの説もある。清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、清華でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実として採用していたとの主張もある(元木泰雄)。

白河法皇落胤説

明治26年(1893年)になって、滋賀県・胡宮神社所蔵の文暦2年(1235年)の日付を持つ『仏舎利相承系図』が発見されたことで、祇園女御の妹が白河法皇の寵愛を受けて懐妊後に、忠盛に下賜されて生まれたのが清盛であり、母が亡くなったので姉の祇園女御が猶子として養育したという説が有力となった。

私的には「「平清盛は平家ではなかった!?」→「平清盛は桓武平氏ではなかった!?」」とした方が正確な表現方法だったと思っています。
 

第31回SBCチャンピオンカップ

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年10月21日(火)09時43分22秒
  10月11日(土)・12日(日)に大磯プリンスホテルで開催された「第31回SBCチャンピオンカップ」に参加してきました。
11日に行われた個人戦は「190・244・202・195 831」、12日に行われた団体戦は「個人成績=194・265・244・188 891 団体成績=2510(3人合計)」という結果でまずまずでした。
11日の夜に行われた宴席で女子プロボウラーの鈴木理沙プロが招かれていました。
Pリーグで鈴木理沙プロを紹介していたのですが、源義経に従っていた鈴木三郎重家の子孫にあたる人だそうです。
PリーグのHPに鈴木理沙プロのブログがあるので興味があったら覗いてみて下さい。
 

残暑見舞

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 9月12日(金)16時50分11秒
  市杵島姫様、大学生として勉学に励んでおられるようですね。
秋の紅葉シーズンに京都の旅行(往路はムーンライトながら・復路は新幹線の夜行・日帰り)に行ったことがあるんですが、とても紅葉が美しかったです。
ボウリングの最近の成績ですが、ハナハト会8月の月例会(215・203・235・172=825 H/C込885 レーンコンディションはショートオイル)で優勝することができました。
平景清をまだ調べているところですが、父親の藤原忠清も平姓を名乗って平忠清という名前を使っていたようです。
鎌倉時代は、藤原姓から平姓への改姓は簡単には出来なかった時代だったはずですが……。
インターネット上の系図で調べてみたら平繁盛(父は平国香)流で平忠清といいう人物が複数いました。
 

(無題)

 投稿者:市杵島姫  投稿日:2008年 9月11日(木)16時28分4秒
  笠松さん

ご無沙汰しています。
今は大学生として京都に住んでいますが
勉強がなかなか大変で以前のようにホームページ
とか運営する事ができません。

けれど笠松さんには変わらず義経の部屋に書き込みを
して頂きありがとうございます。
時々はロムってます(^^;)
これからもどうぞよろしくお願いします。
 

新説!? 日本のミステリーその2

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 5月14日(水)10時52分54秒
編集済
  昨日、新説!? 日本のミステリーを見ました。
番組中で、吾妻鏡の文治5年(1189)閏4月30日条」は紹介されていましたが、残念ながら、全文ではありませんでした。
この文章は、以前義経展で購入した図録では「卒伝」として紹介しており最期の地と伝えられる「高館(たかだち)」と文中の「衣河館」との関係も不明として書いてありました。
「衣河館」で調べてみましたが、場所の特定までには至っていないようです。
もともと「衣河館」そのものがなかったという説も出てくるかも知れませんね。
「義経伝説」で検索してみると北海道各地に「義経伝説」が残っていることがわかりました。
 

新説!? 日本ミステリー

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 5月 8日(木)09時52分39秒
  テレビ東京 5月13日(火)19:56~20:54
「新説!? 日本ミステリー ● 義経は確かに生きていた!?」
が放送予定です。
番組中で「吾妻鏡の文治5年(1189)閏4月30日条」が紹介されればと思っています。
 

近松門左衛門

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 4月10日(木)10時10分38秒
  近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん、近松門左衞門 承応2年(1653年)-享保9年11月22日(1725年1月6日))は江戸時代前期の元禄期に活躍した歌舞伎・人形浄瑠璃の劇作家。本名は杉森信盛。生まれは、越前国。
浄瑠璃では竹本義太夫、歌舞伎では坂田藤十郎と組んで活躍した。100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約20曲が世話物、残りが時代物であった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であり、それまでにない浄瑠璃の新しい分野として爆発的な人気を呼んだ。そうした世話物は近松作品の大きな特徴と言われる。また近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えた。
忌日の11月22日(明治以降は新暦で行われる)は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語である。
箕面市の瀧安寺において同寺に寄進した大般若経が発見された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

浄瑠璃の「出世景清(1685年)」から近松門左衛門が出てきたので調べてみました。
生まれは越前国と記述してありますが、諸説あります。
今風にいうとペンネームである「近松門左衛門」の名の由来も諸説あるようです。
私的には2月5日の投稿で記述した「御名の因となった平景清は、上総国布施の産、笠松右衛門景高の息」という情報をどこか(京都の清水寺?)で聞きつけて「笠松右衛門」をもじって「近松門左衛門」というペンネームにしたと思っているんですが……。
 

平景清その3

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 3月14日(金)17時07分49秒
  「石岡散歩-史跡めぐり-」というHPで以下の記述を見つけました。

景清塚

   所在地:石岡市貝地ニ丁目6番

 石岡市貝地地内にあり、平景清は桓武天皇の皇子葛原親王の子、高望王の子孫で、府中六井の一つといわれた室ヶ井の水で産湯をつかったと言い伝えられ、現在この地は景清山、景清屋敷と呼ばれている。
 景清は寿永年間1183年、平維盛に従って屋島合戦に源氏の美尾谷十郎国俊と錣引の力競べをして、その剛勇をうたわれた。また扇の的を射た源氏の那須与一と共に屋島合戦の双璧を飾ったが、平家滅亡の後、源頼朝に従った。後に常陸国守護八田知家に預けられたが、食を断ち建久7年3月7日に命を終えた。
 江戸時代より愛額社として祀られ、塚には樹齢700年と言われる「さいかち」の大木(注)がある。また隣地の平等寺内に供養塔が残っている。

<石岡の歴史と文化 平成8年3月発行> 石岡市歴史ボランティアの会編集 石岡市教育委員会発行

平景清は平影清という表記もあるようです。
 

(無題)

 投稿者:和田館二ノ姫  投稿日:2008年 2月24日(日)13時25分4秒
  平家物語どころか平安鎌倉源平史が根こそぎひっくり返る話しがたくさんあるんですけどね・・・まぁ言えませんけど、もし言っても当事者以外誰も信じないですしね・・・受けを狙った突飛な源平漫画でも考え付かない話しばかりですよ。でも当時の人間なら当たり前の話しなんですが1000年も経っちゃうと人間の考え方がまるで違って、いくら偉い学者さんでも想像すら出来なくなってしまいましたからね。  

平景清その2

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 2月18日(月)10時26分13秒
  大日坊(房)能忍で調べてみたら下記投稿では「伯父大日坊(房)殺害」と書いてありますが近年の研究で、大日坊(房)の死因については病死もしくは事故死というのが有力になっています。また没後に弟子達が道元と関わりがあったことがわかりました。
2つの文を整合性をとって考えてみると笠松笠松右衛門景高から藤原忠清の第7子として養子として出したと考えられるのですが……。
あくまで想定ですが、平景清が笹竜胆家紋を使っていたとしたら平家物語の話の筋が一変しますね(爆)。
 

平景清

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 2月 5日(火)17時31分37秒
  平 景清(たいら の かげきよ、生年不詳 - 建久7年(1196年)?)は平安時代の武士。藤原忠清の子。
平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)である。本名は藤原景清(伊藤景清)。通称、上総七郎(かずさのしちろう、上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。
上記文書:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

坂東札所会のページで以下の記述を見つけました。
http://www.bandou.gr.jp/
第三十二番 音羽山清水寺 (清水観音) 天台宗
〒299-4624 千葉県夷隅郡岬町鴨根一二七〇
「景清身代り観音 清水寺住職 井上享海」の記述の一部を以下に引用します。
御名の因となった平景清は、上総国布施の産、笠松右衛門景高の息で、伯父大日坊殺害のため悪の一字を冠せられ悪七兵衛景清と呼ばれた平家の勇者でした。弱年より観世音を信仰し、日夜誦経を怠らなかったと申します。
 

謹賀新年

 投稿者:和田館二ノ姫  投稿日:2008年 1月 4日(金)13時07分5秒
  笠松さん。
新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
弁天山のライブビューって
私も昨年からずーっと見てるんですけど
いつも画像が表示されたことがなくて・・・
笠松さんは見えるんですよね・・・
まぁ私は実物が見えますけど・・・
うーん・・・
 

初詣

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2008年 1月 2日(水)11時24分35秒
編集済
  新年あけましておめでとうございます。
先ほど、日本一低い山の公式サイトのライブビューを見たら快晴でした。
元旦に銭洗弁財天→鶴岡八幡宮→荏柄天神社と初詣をしてきました。銭洗弁財天でひいたおみくじ(扇子形の持帰り用)は第4番大吉でした。今年の初詣は快晴で人出が多く鶴岡八幡宮ではお参りするのに時間がかかりました。鶴岡八幡宮の正月規制がかかった一方通行の出口のところに一の谷の武勇伝で知られる畠山重忠の邸宅跡の石碑がありました。
大晦日から元日にかけて、品川プリンスホテルBCで8ゲーム(4ゲームでレーン移動)の年越しボーリングをしました。結果は(前半290・214・258・226=985 後半257・204・158・160=779 合計1764 AV=220.5 H/D込み=1932 168=21*8)でなんと優勝とハイゲーム賞をいただきました。年越しのカウントダウンの後に行われたストライクチャレンジでもストライクがでてストライクチャレンジ賞もいただき幸先良いスタートが切れました。
290点は品川プリンスホテルBCでの最高スコアです。
 

日本一低い山

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年12月 5日(水)11時51分6秒
  先日テレビを見ていたら日本一低い山で大阪市港区の天保山(種別は築山で標高4.53m)を紹介していました。インターネットで調べたところ人工の山ではもっと低い山がいくつかありました。
ここのHPにもありますが弁天山(6.1m)は国土地理院のHPからの引用によると
「日本一低い山」と言われている山はいくつかありますが、徳島県徳島市にある弁天山は「2万5千分の1地形図に載っている、自然にできた山」としては、日本一低い山と言われています。
毎年6月には地元保存会により山開きが行われるほか、山頂では結婚式が行われたこともあります。
と、弁天山の写真とともに上記のように紹介されていました。
弁天山で調べたところ今年の4月3日に公式ホームページ(http://bentenyama.com/)ができていました。ライブビューがついていますので見ただけで御利益があるかも知れません。先ほど見たところ本日は晴天で風が強いようです(なぜか吹き流しがあります)。
こちらの方は非公式ではありますが「香川県にも誕生日本一低い山」としして香川県の御山がエキサイトニュース(2006年1月4日)で以下ののように紹介されていました。
場所は香川県東かがわ市松原。国立公園、白鳥の松原の中にある「御山」と呼ばれる山である。
この山、2005年の8月7日に開山したばかり。まさにできたてほやほやの「日本一低い山」なのだ。
なぜ最近になって開山したのかというと、理由は台風。
夏の台風でこの辺り一面の低地が浸水に遭ってしまった。その際「この辺りで一番高い場所はどこだろう」となり、探してみると高さ3.6メートルの「御山」がそれに当てはまったのだとか。
さらに明治時代の郷土史を調べてみると、御山は自然の山としてしっかり記載されている。
そんなわけで05年8月7日(旧暦7月1日)に山開きのイベントを行い、「日本一低い山」が誕生したというわけだ。まさに怪我の功名である。
この山の近くには白鳥神社(香川県東かがわ市松原69)があって、調べたところ源義経が平氏を追って屋島へ向かう途中、戦勝を祈願したという伝承がありました。
 

歴博企画展見聞記

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年11月26日(月)10時53分14秒
  11月24日(土)に国立歴史民俗博物館の企画展示「長岡京遷都 -桓武と激動の時代-」を見学してきました。国立歴史民俗博物館が佐倉城跡(元は千葉氏とゆかりのある城)に建築されていることも見逃せません。
12時30分位に博物館に着いて企画展示を見てきました。あらかじめ第62回歴博フォーラムで予習ができていたので興味深く見学することができました。
見学後、遅い昼食を歴博のレストランで食べました。レストランの予約表には「ひががな」で名前を書いてくださいとあるのになぜかみんな「カタカナ」で書いてありました。私はちゃんとひらがなで「かさまつ」と書いてきました。今回は、古代カレーを食してきたのですがとてもおいしかったです。
歴博の近くある「くらしの植物苑」で開催されている「伝統の古典菊」の鑑賞と写真撮影をして帰宅の途につきました。入り口近くになぜか「牛若丸」という品種の菊がありました。
昨日、新調した球(ブラックウィドー STING 15.2ポンド)が良かったのかラウンドワン川崎大師店で最後の一投が裏ストライクになるラッキーでなんと初のパーフェクト(300・201・181・189・224)を出してきました。パーフェクトを出したのはこの球で投げ始めて5ゲーム目でした。
 

第62回歴博フォーラム聴講記

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年11月19日(月)11時02分22秒
  昨日は、自宅近くの駅を朝9時丁度に発車する電車に乗って会場である東商ホールに向かいました。フォーラムが始まる頃には会場はほぼ満席(定員数を超える応募があったそうです)になっていました。
話の要旨は「奈良時代→長岡京時代(784~794)→平安時代」というように長岡京が存在した時期を長岡京時代と呼んだ方がよいのではないかということでした。
長岡京の見方も「平城京の副都」、「平安京の副都」とする見方もあると言うことが併せて説明されていました。
フォーラムで話された各先生方の話を聞いて私なりに考えたことは1000年の都と言われる「平安京」のプロトタイプとして「長岡京」を作ったのではと思いました。
午前中行われた朧谷寿先生と作家の永井路子氏の対談も非常に興味深い内容(桓武天皇(延暦帝)にまつわる話もかなり聞くことができました。)であっという間に時間が過ぎていき、午後の話も先生1人につき30分というのがとても短く感じられ、あっという間に時間が過ぎていきました。
展示会の図録は増刷する予定がないそうなので、買い忘れないようにと図録のコマーシャルもちゃんとしていました。
展示会の方は今週末あたりに行く予定でいます。

下のメールで誤りがありました。
誤→詳細は国立民俗歴史博物館のHPを参照してください。
正→詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。
 

第62回歴博フォーラム

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年 9月29日(土)10時43分43秒
  ■長岡京遷都-桓武と激動の時代-
■開催期間:平成19年10月10日(水)~12月2日(日)

以上の要領にて国立民俗歴史博物館にて特別展が開かれます。

特別展に関連して「第62回歴博フォーラム 激動の長岡京時代」が開催されます。
日時:11月18日(日) 10:00~17:00
場所:東商ホール(東京商工会議所ビル4階)
   東京都千代田区丸の内3-2-2
先着順ですので早めに申し込むことをお勧めいたします。私の受付番号は200番近くでした。
三浦氏も先祖をたどれば、桓武天皇に至るので面白い話が聞けそうです。
詳細は国立民俗歴史博物館のHPを参照してください。
 

笹竜胆(ささりんどう)

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年 9月25日(火)11時41分58秒
  「NHK趣味悠々 おくのほそ道を歩こう 第3回」で高館義経堂(たかだちぎけいどう)を見て思ったのですが、義経像が身につけている甲冑の笹竜胆紋が印象に残りました。
さて、この笹竜胆紋で調べたところ、源義経が生きていた時代には清和源氏は白旗のみで竜胆紋は使われていなかったようで、村上源氏が使用していたのが江戸時代になってあやまってひろまり清和源氏の子孫を称するものが競って使うようになったと記述してありました。
ちなみに、永平寺の寺紋も竜胆紋でした。
 

おくのほそみちを歩こう

 投稿者:笠松憲一メール  投稿日:2007年 9月14日(金)09時56分47秒
  「NHK趣味悠々 おくのほそ道を歩こう 第3回(東京では9月19日午後10時より放送)で中尊寺・義経堂などが紹介されるようです。義経堂は伊達綱村が天和3年(1683)に建立したもので、松尾芭蕉はその6年後に訪れています。
「NHK趣味悠々 おくのほそ道を歩こう」のテキスト(税込1050円)を購入したところ私が行ったことがある医王寺を含め、義経関係の記事が多く掲載されていました。
ボウリングの成績はまずまずで、ハナハト会8月の月例会で準優勝(品川プリンスホテルBCのHP参照)、ROUND1 Masters CUP2008は本日現在2位(川崎大師店)です。最近のハイゲームは品川の研修リーグ(8月27日)で出した(202・278・207・162=849)の278です。
 

はじめまして

 投稿者:義純です  投稿日:2007年 9月12日(水)06時38分39秒
    自分の家系を調べたのですが、義経の系列でした。  源のぶらくがあり周辺に住んでいる親戚は皆名前に義がついています。
  僕は昔から霊感があり、亡くなった人が沢山、常に付きまとっています。
  親戚の叔母さんに話した所源の系列は呪われていると怖い顔で言われました。  今では霊に導かれるがままに日本中旅に出ています。
  源の系列に斬られた人、切腹した人色んな恨みをもったひとがまだまだ安らかに眠れず僕を憎いと現れます。
  今はまだ23ヶ所のお寺に回った所ですが、人の恨みは奥が深いものです。
  ですから、源家の系列はもちろん三浦家の系列の方々も是非この事を受け止め皆が幸せに暮らせるように願ってあげて下さい。
 

勉強不足でスミマセン

 投稿者:三浦一族の末裔かも?  投稿日:2007年 9月 6日(木)23時55分13秒
  ありがとうございます。家紋や家系図、菩提寺は実家に問い合わせてみようと思います。今の性は三浦です。あと関係ないかもしれないけど、ウチの一族は身体的特徴としてみんな鼻が高いというよりデカいです。もし三浦一族がそうなら期待が持てそうなんですが・・・  

いらっしゃいませ。

 投稿者:市杵島姫  投稿日:2007年 9月 5日(水)18時31分29秒
  三浦一族は北条氏や体制側に滅ぼされ滅亡しましたけど、やはり大豪族だったのでかなりたくさんの子孫が生き残って今に繋がっています。織田信長の家臣として有名な佐久間一族や
東北の大名蘆名一族などもそうです。もちろん落ち武者となって鎌倉を終われ全国に逃げ延びて行きましたが、落ちていく先としてはやはり山陰地方など鎌倉や京都から離れた場所が選ばれますから島根県の山奥にも落ちていっただろうと思います。三浦の末裔かどうかは落ち延びた先も手がかりですが本家筋の神奈川の場所とか現在名乗っている名前や家紋、また菩提寺の過去帳などが参考になりますよ。いろいろと戦乱に巻き込まれた一族なので家系図は現在まで伝わっていないところも多いですし、素性を隠す必要もあったので家系図があってもあまり参考にならないかもしれませんが・・・
三浦も惣領家の系統なのか和田の系統なのかそのほかなのか・・・とにかく大きな一族なので・・・もちろん山陰にも子孫がいらっしゃることは私も存じていますから可能性は十分に有ると思います。
 

(無題)

 投稿者:三浦一族の末裔かも?  投稿日:2007年 9月 5日(水)02時06分9秒
  三浦氏が島根県の山奥に落ち延びたっていう話はありますか?親父の故郷がソコで本家は神奈川にあるって聞いた事があるので。  

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